1868-04-27~1929-06-29

内田 魯庵(1868-04-27~1929-06-29)

様々な学校で学んだが結局どこも卒業せず、叔父の文部省編輯局翻訳係井上勤のもとで下訳や編集の仕事をする。ある時、山田美妙に評論を書き送ったところ、その文が認められ、批評家として立つことになった。明治・大正期の代表的批評家と評価されるが、翻訳家としての業績も大きく、未完だがドストエフスキーの翻訳「小説罪と罰」は明治の思想に大きな影響を与える。

 俺か

間の威張臭る此|娑婆《しやば》では泣く子と地頭で仕方が無いが、 嬢様のお美くしいのは番町名代のもので学校でも一番だ。街路《わうらい》の人が、若い者は勿論爺さん媼さんまでが顧盻《ふりかへ》つて見る。随行《おとも》の俺までが鼻が高いんだ。殊に旦那と一緒に暫らく欧羅巴に在《い》らしつたから、毛唐の言葉も達者で黄鳥《うぐひす》のやうな声でベラ/\[#「ベラ/\」に傍点]お咄しなさる。其上に音楽《なりもの》がお上手で、ピアノとかは専門家《しやうばいにん》に負けないお伎倆《うでまへ》ださうだ。毎朝御飯前と午後《ひるすぎ》、学校からお帰りJoye510sなると必《きつ》と練習《おさら》ひなさるが、俺達のやうな解らないものが聞いてさへ面白いから、何時でも其時刻を計つて西洋間の窓の下に恍惚《うつとり》と聞惚れてゐる。庭の木立を洩れる音を塀越しに聞いて茫然《ぼんやり》と佇立《たちどま》る人も大分あるさうだ。
 愈々来年は御卒業になつて二十歳《はたち》の花盛りだから、何れ何処へか御縁附きになるのだが、何がさて御容貌は番町随一、恐らく東京随一だらうといふ評判で、諸芸に達しおられて無類の御発明《ごはつめい》だから、昔しなら女御更衣といふ御身分だ。それだから表立つて親御へ申込まれる華族、豪商、権門の方を始め、何かに托《かこ》つけて邸へ出入りする当世風の若紳士、隙があれば喰はふといふ君達狼連まで、有るは/\、自称候補者の面々が無慮一万人ばかりだね。
 夫人《おくさま》は御心配になつて眼の廻るほどな忙がしい目をなすつて申込人の身分財産性質等の内幕を一々詮議遊ばす。其掛りの書生を三人新たにお抱へになつた位だ。だが、旦那は西洋で育つた方だけに飛んだ気が捌《さば》けて在らつしやる。結婚は一生の大事だから身分身代の詮議は二の次である。当人さへ承知なら位置も身分も無い君達のやうな貧乏書生にでも呉れてやると仰しやる……
 これさ、爾う喜んでは困る。君達では迚も御当人の嬢様がお気に入らんからね、先《ま》ア糠喜びも大抵にして断念《あきら》めなさい。
天国に生れたなら一つメンソール 電子タバコ対手《あひて》取つて訴訟を提起《おこ》してやる覚悟だ。